2015年 10月 22日
転石、苔むさず |
エントリタイトル、ご存知の方も多いかと思います。「A rolling stone gathers no moss」という英語の格言が明治期に翻訳されたもの。
実は、毎日毎日繰り返す家事仕事をするとき、頻繁に私の頭に浮かぶ言葉でもあります。
これ、意味解釈は二通りあって、イギリス式だと「落ち着き無い人は大成しない」的な意味に使われ、アメリカ流だと「変化・革新する人は大成する」となって真逆の意味になったりします。
私は大体、後者的にというか字義通りというか「動かしてるものは錆付かない」的にイメージしちゃってます。
お風呂のお掃除をしながら「転石、苔むさずってねー」(毎日やってりゃ汚れもつきにくい)
キッチンシンクを磨きながら「転石、苔むさずっていうもんねー」(しょっちゅう磨けばピカピカ♥)
あ、念のために言いますと、別にキレイ好きなコマメ主婦だと自慢しているわけではありません。むしろ手抜きチュプなので、「四角い部屋を丸く掃く」式で、とにかく「行き届かなくてもいいからほどほどにきれいにしとけば言い訳がたつ」的な感じなわけでして^^;;;;
お庭の小砂利に苔がついてきてる場所があるのに気づいたときも、ため息まじりに思いました。
「だって、蹴散らかして転がしてくれるアクアさんたちがいないんだもん。苔も付くよねえ…」
これは、もう字義の通りというか、まんまそのまんまというか。
今日は、まだ設置したままのリードフックに吊るしたなりの黒革リードに目がとまりました。ええ、カビてました。
あれだけハードユースして、ヨダレがつき鼻水がつき手垢に泥汚れ砂ぼこりがつき放題、水がバシャバシャひっかかるのなんて当たり前の毎日を過ごしていても、毎日使っていたときにはカビなんて生えたことがなかったのに。本当は、革用オイルなどでお手入れするのでしょうけれど、そんなことしたことがなくて、それでもいつもしなやかで、糸目が弱ってほつれてきたのと、いたずらでカミカミして千切れちゃったのでしか取り替えたことがなかったです。
その丈夫な革リードが、カビてしまっていました。実のところ、もう何度目かなので別に驚きゃしませんでしたが。
ピンクちゃんが居たころは、アクアさん用のリードも適当に取り混ぜて使っていた(とゆーか、特に区別なく使っていた)ので、リード完全放置はピンクちゃん没後から。たった一年の放置で、もう何度洗ったことやら。
これを洗うときにも思います。「転石、苔むさずっていうよねえ…」って。
いつもは手洗い・手絞りで日陰干しなのですが、なんだか今日は無性にむかついて、洗濯機にぶちこんで洗剤洗い&普通に日向干しにしてやりました。カッチカチに固く干しあがってしまいましたが…いいんです、別に。だって使わないんだもんね。固いからって手ずれで痛くなることもないし。しなやかさがなくなってふいに千切れてしまうかもしれないという心配も、そもそも繋ぐ子たちがいない今は意味がない…。
ただ、捨てるにしのびなく、片付けてしまうにしのびないから、そのまま玄関先にリードフックがあって、そのまま掛けてあるだけのリードです…。ローズ姐御が使っていたのを受け継いでいる一本もあるから、それもあって捨てられない…それだけのものなんです。あの楽しかった日々に繋がるものだから…だから捨てられない…。
あの子たちが亡くなった日のことは、思い返すたびに確かに辛いです。悲しいです。
でも、やっぱりそれは1年前なり2年前の出来事で、「思いだす」というワンクッションが必要なことです。
それよりもなによりも、やっぱり今も鮮やかに辛さを感じるのは、この毎日にずっと継続しているあの子たちの「不在」です。いないことがなによりも辛い。
死なせたことも辛い、見送ったことも辛い、弱っていくのを見守っていた記憶も確かに辛いけれど、でも何よりも辛いのは今そばに居ないこと。ここに居たはずの子が、日々撫でて慈しんできた存在が不在であることです。
悲しみが癒えないのは当たり前です。「転石、苔むさず」って、この日々の不在にも言えることなんだろうと思います。毎日毎日、居ないことを思い知り噛み締めて過ごしているのだから、悲しくならないわけがない。
今日は、その悲しみをきっと噛み締めているだろう優しいお友達と、亡くなったワンコに強く思いをする日です。
実際に会えたのはほんの2回だけでも、不思議なご縁で続いているお友達。
慰める言葉もないけれど、同じく悲しい思いをしていることだけはお察しいたします。
きらりちゃんときら母さん、悲しい思い出で泣くこともありますよね。でも、楽しい思い出で笑顔にもなれますよね。あの子たちに追いつける日がくるまで、お互い、がんばっていきまっしょい。
「転石、苔むさず」
この悲しい思いが苔むしてしまうことはないんでしょうけど、でもそれはもうどうしようもないことなんですよね…。
実は、毎日毎日繰り返す家事仕事をするとき、頻繁に私の頭に浮かぶ言葉でもあります。
これ、意味解釈は二通りあって、イギリス式だと「落ち着き無い人は大成しない」的な意味に使われ、アメリカ流だと「変化・革新する人は大成する」となって真逆の意味になったりします。
私は大体、後者的にというか字義通りというか「動かしてるものは錆付かない」的にイメージしちゃってます。
お風呂のお掃除をしながら「転石、苔むさずってねー」(毎日やってりゃ汚れもつきにくい)
キッチンシンクを磨きながら「転石、苔むさずっていうもんねー」(しょっちゅう磨けばピカピカ♥)
あ、念のために言いますと、別にキレイ好きなコマメ主婦だと自慢しているわけではありません。むしろ手抜きチュプなので、「四角い部屋を丸く掃く」式で、とにかく「行き届かなくてもいいからほどほどにきれいにしとけば言い訳がたつ」的な感じなわけでして^^;;;;
お庭の小砂利に苔がついてきてる場所があるのに気づいたときも、ため息まじりに思いました。
「だって、蹴散らかして転がしてくれるアクアさんたちがいないんだもん。苔も付くよねえ…」
これは、もう字義の通りというか、まんまそのまんまというか。
今日は、まだ設置したままのリードフックに吊るしたなりの黒革リードに目がとまりました。ええ、カビてました。
あれだけハードユースして、ヨダレがつき鼻水がつき手垢に泥汚れ砂ぼこりがつき放題、水がバシャバシャひっかかるのなんて当たり前の毎日を過ごしていても、毎日使っていたときにはカビなんて生えたことがなかったのに。本当は、革用オイルなどでお手入れするのでしょうけれど、そんなことしたことがなくて、それでもいつもしなやかで、糸目が弱ってほつれてきたのと、いたずらでカミカミして千切れちゃったのでしか取り替えたことがなかったです。
その丈夫な革リードが、カビてしまっていました。実のところ、もう何度目かなので別に驚きゃしませんでしたが。
ピンクちゃんが居たころは、アクアさん用のリードも適当に取り混ぜて使っていた(とゆーか、特に区別なく使っていた)ので、リード完全放置はピンクちゃん没後から。たった一年の放置で、もう何度洗ったことやら。
これを洗うときにも思います。「転石、苔むさずっていうよねえ…」って。
いつもは手洗い・手絞りで日陰干しなのですが、なんだか今日は無性にむかついて、洗濯機にぶちこんで洗剤洗い&普通に日向干しにしてやりました。カッチカチに固く干しあがってしまいましたが…いいんです、別に。だって使わないんだもんね。固いからって手ずれで痛くなることもないし。しなやかさがなくなってふいに千切れてしまうかもしれないという心配も、そもそも繋ぐ子たちがいない今は意味がない…。
ただ、捨てるにしのびなく、片付けてしまうにしのびないから、そのまま玄関先にリードフックがあって、そのまま掛けてあるだけのリードです…。ローズ姐御が使っていたのを受け継いでいる一本もあるから、それもあって捨てられない…それだけのものなんです。あの楽しかった日々に繋がるものだから…だから捨てられない…。
あの子たちが亡くなった日のことは、思い返すたびに確かに辛いです。悲しいです。
でも、やっぱりそれは1年前なり2年前の出来事で、「思いだす」というワンクッションが必要なことです。
それよりもなによりも、やっぱり今も鮮やかに辛さを感じるのは、この毎日にずっと継続しているあの子たちの「不在」です。いないことがなによりも辛い。
死なせたことも辛い、見送ったことも辛い、弱っていくのを見守っていた記憶も確かに辛いけれど、でも何よりも辛いのは今そばに居ないこと。ここに居たはずの子が、日々撫でて慈しんできた存在が不在であることです。
悲しみが癒えないのは当たり前です。「転石、苔むさず」って、この日々の不在にも言えることなんだろうと思います。毎日毎日、居ないことを思い知り噛み締めて過ごしているのだから、悲しくならないわけがない。
今日は、その悲しみをきっと噛み締めているだろう優しいお友達と、亡くなったワンコに強く思いをする日です。
実際に会えたのはほんの2回だけでも、不思議なご縁で続いているお友達。
慰める言葉もないけれど、同じく悲しい思いをしていることだけはお察しいたします。
きらりちゃんときら母さん、悲しい思い出で泣くこともありますよね。でも、楽しい思い出で笑顔にもなれますよね。あの子たちに追いつける日がくるまで、お互い、がんばっていきまっしょい。
「転石、苔むさず」
この悲しい思いが苔むしてしまうことはないんでしょうけど、でもそれはもうどうしようもないことなんですよね…。
by aaqua-pinkk
| 2015-10-22 16:14
| ヨシナシゴト
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